나의雜記帳

長崎の鐘 / 歌. 水森 かおり & 歌の背景

bsk5865 2016. 11. 18. 06:19

長崎の鐘 / 歌. 水森 かおり & 歌の背景| ☞엔카

무영탑 | 조회 8 |추천 0 | 2016.03.30. 21:47

                                長崎の鐘 水森 かおり 


            こよなく晴れた 青空を
            悲しと思う せつなさよ
            うねりの波の 人の世に
            はかなく生きる 野の花よ
            なぐさめ はげまし 長崎の
            ああ 長崎の鐘が鳴る
            召されて妻は 天国へ
            別れてひとり 旅立ちぬ
            かたみに残る ロザリオの
            鎖に白き わが涙
            なぐさめ はげまし 長崎の
            ああ 長崎の鐘が鳴る 
            こころの罪を うちあけて
            更けゆく夜の 月すみぬ
            貧しき家の 柱にも
            気高く白き マリア様
            なぐさめ はげまし 長崎の
            ああ 長崎の鐘が鳴る
             

            現存する日本最古の木造ゴシック様式の教会 長崎の大浦天主堂
            オリジナル歌唱/藤山一[1949年]

            [歌の背景]
            [長崎の鐘]は 長崎醫大 永井隆助敎授が執筆した随筆。1949.1月に出版され
            紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。同書をモチーフとした
            歌謡曲はヒットしさらに映画化され、版を重ねることになった。

            永井博士は、放射線医学の研究と治療に従事するなかで、慢性骨髄性白血病に
            かかり、余命3年と診断されます。1945年8月9日、原爆投下の日
            永井緑夫人は現在の「如己堂」のある上野町の自宅にて爆死し、永井博士は
            長崎医科大学で被爆、重傷を負いました。
             
            永井博士は、当時長崎医科大学物理的療法(レントゲン)科主任の
            助教授で、被爆直後から第十一医療隊三山救護班の隊長として被災者の
            献身的な救援に奔走し、8月から10月までの2ヶ月間にわたる救護活動を
            『原子爆弾救護報告』にまとめています。
            この生々しい記録は、あとで世に出た『長崎の鐘』その他の作品集の
            原点となっています

            博士は翌年、白血病で倒れますが、病床から『ロザリオの鎖』『生命の河』
            『長崎の鐘』『この子を残して』『花咲く丘』『いとし子よ』
            『亡びぬものを』『乙女峠』等々、数多くの著作を発表し、
            1951年5月1日、43歳で亡くなりました[wikipedia參照]
                    

               

              첨부파일 10_長崎の鐘-水森かおり.mp3


               

               

               http://cafe.daum.net/yooin32/6rkh/43977 

                


              [k-40366] 長崎の鐘  藤山一郎  1949

              作詞:サトウハチロ-作曲:古関裕而 唄 水森かおり (原曲  藤山一郎 昭和 24年)

               

              こよなく 晴れた 青空を                 더없이 맑은 푸른 하늘을

              悲しと 思う せつなさよ                 슬프다고 생각하는 애절함이여

              うねりの 波の 人の世に               거센 파도의 인간세상에

              はかなく 生きる 野の花よ              덧없이 살아가는 들꽃이여

              なぐさめ  はげまし   長崎の           위로하고 격려하며 나가사키의

              ああ 長崎の 鐘が 鳴る                 아아 나가사키의 종이 울리네

               

              召されて 妻は 天国へ                    부르심을 받고 아내는 천국으로

              別れて ひとり 旅 立ちぬ                이별 뒤 나홀로 길을 떠나네

              かたみに 残る ロザリオの            유품으로 남은 로자리오의

              鎖に 白き わが 涙                          묵주에 하얀 나의 눈물

              なぐさめ  はげまし   長崎の           위로하고 격려하며 나가사키의

              ああ 長崎の 鐘が 鳴る                 아아 나가사키의 종이 울리네

               

              心の罪を 打ち明けて                     마음의 죄를 고백하고

              更けゆく 夜の 月 すみぬ                깊어가는 밤의 달이 밝구나

              貧しき 家の 柱にも                     가난한 집의 기둥에도

              気高く 白き マリア様                    기품있는 하얀 마리아님

              なぐさめ  はげまし   長崎の           위로하고 격려하며 나가사키의

              ああ 長崎の 鐘が 鳴る                 아아 나가사키의 종이 울리네

               

                

              **


               長崎の鐘   

               

              永井 隆가 쓴 수필. 1949년 출판되어 空前의 베스트셀러가 됨.

              의학박사로 나가사키의 대학병원에 근무하던 永井隆는 1945년 8월 9일 나가사키에 원자폭탄이 떨어지자 자신도 큰 부상을 입었음에도 불구하고 밤새워 구급환자들을 돌본 후 이튿날 아침 귀가했다. 그러나 그는 잿더미로 변한 집과, 뼈만 남은 아내의 유해를 발견한다.

              아내의 목에는 로자리오가 걸려 있었다.그 후 그는 피폭환자들의 치료에 매진했으나 그 자신도 피폭에 의한 백혈병으로 1951년 숨을 거둔다.

               

               http://cafe.daum.net/yooin32/6rkh/43977 

                                            http://takurou.co-site.jp/natumero/26-30/nagasakinokane.htm 경음악

    新・日本紀行(119)長崎 「長崎の鐘」  

    http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/nagasi/uragami/uragami82.jpg
    浦上天主堂の脇にある、原爆により崩れ落ちた浦上天主堂のアンジェラスの鐘


    長崎の象徴・御馴染みの「平和の像」

     「日本一周の旅の記録」へリンクします
     

    さて、長崎である、 
    時津の港を過ぎると長崎の町へ入ったようである。 
    左右山肌の斜面を切り刻んで造成した住宅団地が八方に見られる。 
    長崎は「階段の街」、「坂の街」として有名であるが、この辺りにも傾向が見られるようだ。 

    余談だが、長崎は坂が多いため自転車に乗る人は少なく、他都市でしばしば問題になる放置自転車などの問題は少ないといい、年齢層を問わず自転車に乗れない人の割合も他の都市に比べて高いらしい。

     市街地へ入ってきた、長崎市電であろうか路面電車が同路上を行く。
    電車と言えども、やはり坂道はつらそうである。大きな敷地の長崎大学を過ぎると間もなく「平和記念公園」のガイド版が現れ、案内にそって訪ねてみることにする。 

    国道のすぐ横にその公園はあった。 
    いきなり、あの天を指す「平和記念像」の前に出た、像は天を指す右手が原爆の怖さ、左手が平和、閉じた目が犠牲者の冥福を祈ってるそうである。
    すぐ横に白い荘厳な建物で「長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂」と、チョット厳しく、長いお題目のお堂が在った。

    ここは原爆によって亡くなった身元や氏名不詳の遺骨、氏名がわかっていても一家全滅などで引き取り手がない原爆無縁死没者の遺骨を安置しているという、小さく黙礼をする。
    玄関付近に黒の御影石に白字で刻した石碑が、当時の生々しさを物語っている。

     刻文は次のように記されてあった・・、

    『原爆殉難無縁者慰霊の記』
    「昭和20年8月9日午前11時2分米軍が原子爆弾を長崎に投下した。 この時、即死者70040余名および避難の途中或いは収容加療中に死亡した者のうち、一家全滅または身元不明のため無縁となった遺骨は市町村役場や寺院町内会その他一般篤志家の手で埋葬供養されていた。 

    長崎市民生児童委協議員会は、この不幸な方方のみをお慰めするため長崎市に協力して昭和30年7月から一年余にわたり内外の各地に散在していたこれら無縁遺骨を収集した。

    後、昭和34年3月市民の浄財をもってこの地が購入されたが、その寄贈を受けた長崎市はここに納骨堂を建立し、管理を長崎市民生児童委員会に委託した。よって本会はさきに収集した原爆殉難無縁遺骨7000余柱をここに安置し観音像を本尊として年々祭祀を行ないその冥福を祈ってきた。

    その後、遺骨の氏名や近親者が判明して引き取られたものもあったが追加合祀された数もまた多く昭和50年8月現在8927柱が安置されている。 

    祭祀は長崎市仏教連盟のご奉仕を願い、長崎市原爆殉難者無縁仏慰霊奉賛会がこれに当たり、経費は長崎市民を始め広く全国各地から寄せられた浄財により賄われている。 

    ここに原爆被爆30周年を迎えるに当たり殉難者の冥福を祈念し、世界平和実現へ邁進する決意を新たにしつつ、謹んで以上の経過を記す。
     
    長崎市民生児童委員協議会、長崎市原爆殉難者無縁仏慰霊奉賛会
    昭和五十年八月一日」

     原爆落下地点に建てられている公園内の各種施設、石碑群はこの上空500メートルの地点で爆発したのである。 
     
    中央に「平和の泉」の噴水池があり、石碑には「のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくてとうとう油の浮いたまま飲みました。」と刻文字が書かれている。 
     
    木々の間に、各国からを贈られたという彫像が置かれている。ソビエト連邦、チェコスロバキア等、母子の像が多い。 

    長崎の鐘、平和の鐘・・、
    そして、その鐘の象徴でもあろうか、すぐ近くの小高い丘の上に赤レンガ造りの双塔の天主堂が天を指している、「浦上天主堂」である。
     
    天主堂は明治6年(1873年)にキリシタン禁制が解かれ、信教の自由を得ると浦上のキリシタンたちは明治13年に庄屋屋敷を改修して教会とした。

    この東洋一を誇るロマネスク様式大聖堂も爆心地に近かったため一瞬のうちに破壊されたという。 
    しかし、昭和34年に見事に復元され、赤レンガ造りの美しい天主堂として長崎カトリック界の中心となっている。


    その破壊された天主堂の鐘堂の一部が、丘の下の河原の路地際に放置され、無残(無念・・)な姿を晒している。 
    否、放置ではない・・、当時は石垣で囲い台座の上に展示されていたはずが今は石垣も台座も草生して、まるで放置してある様に見えるのである。 

    しかし、見様によっては近い過去に惨劇と破壊があったことを示し、その影響で野地に崩れて落ちて来たような迫真さを物語っているのである。

     長崎に原爆を落としたB29は「ボックス・カー」と呼ばれ、小島テニアンの基地から飛び立った。 広島に原爆を落としたB29は、「エノラ・ゲイ」と呼ばれ、同じくテニアンの基地から飛び立っているが・・。

    当初は福岡、小倉、長崎、佐世保が目標地であったとしているが天候、その他の事情で雲の隙間から見えた長崎市が最終目標になったという。
     
    昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、遂に長崎上空に一発の原子爆弾が炸裂した、投下地点は長崎市北部に位置する松山町171番地(現松山町5番地)。 当時、長崎市の人口は24万人と推定されており、即死は推定3万5千名、負傷6万名、結局7万名以上が死亡し、

    街は一瞬のうちに壊滅的被害を受けた。 熱線は爆心地付近で4000度、1キロ離れていても1800度、ガラスが溶けてしまうほどである・・!!、猛烈な爆風は爆心地付近の建物が無くなるほど吹っ飛ばした。そして放射能は身体を通過し、内部の細胞を破壊する。 

    また数年経ってからも白血病やガンでなくなるなどの後遺症をも引き起こした。
    本年、平成17年8月9日、60年前のあの夏の日を忘れないよう長崎市民は、「被爆60周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」を開催している。


    長崎の鐘』 詞 サトウ・ハチロー  曲 古関裕而
    こよなく晴れた 青空を
    悲しと思う せつなさよ
    うねりの波の 人の世に
    はかなく生きる 野の花よ
    なぐさめ はげまし 長崎の
    あゝ 長崎の鐘が鳴る

    次回は、大浦地区・「グラバー園」

      
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