長崎の鐘 / 歌. 水森 かおり & 歌の背景
長崎の鐘 / 歌. 水森 かおり & 歌の背景 ☞엔카
現存する日本最古の木造ゴシック様式の教会 長崎の大浦天主堂
助教授で、被爆直後から第十一医療隊三山救護班の隊長として被災者の 献身的な救援に奔走し、8月から10月までの2ヶ月間にわたる救護活動を 『原子爆弾救護報告』にまとめています。
原点となっています。 博士は翌年、白血病で倒れますが、病床から『ロザリオの鎖』『生命の河』 『長崎の鐘』『この子を残して』『花咲く丘』『いとし子よ』 『亡びぬものを』『乙女峠』等々、数多くの著作を発表し、 1951年5月1日、43歳で亡くなりました[wikipedia參照]
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浦上天主堂の脇にある、原爆により崩れ落ちた浦上天主堂のアンジェラスの鐘
長崎の象徴・御馴染みの「平和の像」
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さて、長崎である、
時津の港を過ぎると長崎の町へ入ったようである。
左右山肌の斜面を切り刻んで造成した住宅団地が八方に見られる。
長崎は「階段の街」、「坂の街」として有名であるが、この辺りにも傾向が見られるようだ。
余談だが、長崎は坂が多いため自転車に乗る人は少なく、他都市でしばしば問題になる放置自転車などの問題は少ないといい、年齢層を問わず自転車に乗れない人の割合も他の都市に比べて高いらしい。
市街地へ入ってきた、長崎市電であろうか路面電車が同路上を行く。
電車と言えども、やはり坂道はつらそうである。大きな敷地の長崎大学を過ぎると間もなく「平和記念公園」のガイド版が現れ、案内にそって訪ねてみることにする。
国道のすぐ横にその公園はあった。
いきなり、あの天を指す「平和記念像」の前に出た、像は天を指す右手が原爆の怖さ、左手が平和、閉じた目が犠牲者の冥福を祈ってるそうである。
すぐ横に白い荘厳な建物で「長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂」と、チョット厳しく、長いお題目のお堂が在った。
ここは原爆によって亡くなった身元や氏名不詳の遺骨、氏名がわかっていても一家全滅などで引き取り手がない原爆無縁死没者の遺骨を安置しているという、小さく黙礼をする。
玄関付近に黒の御影石に白字で刻した石碑が、当時の生々しさを物語っている。
刻文は次のように記されてあった・・、
『原爆殉難無縁者慰霊の記』
「昭和20年8月9日午前11時2分米軍が原子爆弾を長崎に投下した。 この時、即死者70040余名および避難の途中或いは収容加療中に死亡した者のうち、一家全滅または身元不明のため無縁となった遺骨は市町村役場や寺院町内会その他一般篤志家の手で埋葬供養されていた。
昭和五十年八月一日」
原爆落下地点に建てられている公園内の各種施設、石碑群はこの上空500メートルの地点で爆発したのである。
長崎の鐘、平和の鐘・・、
そして、その鐘の象徴でもあろうか、すぐ近くの小高い丘の上に赤レンガ造りの双塔の天主堂が天を指している、「浦上天主堂」である。
しかし、昭和34年に見事に復元され、赤レンガ造りの美しい天主堂として長崎カトリック界の中心となっている。
その破壊された天主堂の鐘堂の一部が、丘の下の河原の路地際に放置され、無残(無念・・)な姿を晒している。
否、放置ではない・・、当時は石垣で囲い台座の上に展示されていたはずが今は石垣も台座も草生して、まるで放置してある様に見えるのである。
長崎に原爆を落としたB29は「ボックス・カー」と呼ばれ、小島テニアンの基地から飛び立った。 広島に原爆を落としたB29は、「エノラ・ゲイ」と呼ばれ、同じくテニアンの基地から飛び立っているが・・。
本年、平成17年8月9日、60年前のあの夏の日を忘れないよう長崎市民は、「被爆60周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」を開催している。
『長崎の鐘』 詞 サトウ・ハチロー 曲 古関裕而
こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る
次回は、大浦地区・「グラバー園」
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