戰史.軍歌(日)

山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯 1~9

bsk5865 2010. 7. 4. 14:11

山本五十六・平和を希求した 悲劇の将軍の生涯

 

山本五十六(持論・百年兵を養うは、ただ平和を守るためである)は、戊辰戦争で、圧倒的な劣勢の中で戦死した長岡藩士のだった祖父を持つ(その結果、長岡藩は焦土と化した)。アメリカ駐在の経験から、対米戦争に全く勝ち目が無い事を、国力の圧倒的な差から実感していた。軍事力より外交を重んじた近代的な政治家でもあった。イギリスでの軍縮予備交渉で、辛抱強く西欧諸国と交渉したが、偏狭な国粋主義者が圧倒的な日本政府の指示で、交渉は決裂。世界は軍拡競争に突入することになった。天皇陛下の意向を平気で無視してきた東条達が権力を握る関東軍が豊富なアヘン資金で、日中事変を起こし、彼らの意図する対米戦争に日本は舵を切ることになった。そのために三国同盟を結ぶ動きが、陸軍を中心とする対米戦争推進論者達の中で広がって言った。山本は命がけでこれを阻止した。そして海軍次官を退任して、司令長官になった時、陸軍主導の近衛内閣が第二次世界大戦を引き起こしたドイツと三国同盟を締結。これで、アメリカは、対日貿易制裁を実施。対米戦争不可避となった。長官は、辞任か軍人としての職務遂行の狭間に揺れたが、信じる事と正反対の決断をした。しかし、それでも、終戦を最終目標としていた。そこで、大鑑巨砲中心主義から航空機を中心にすえた攻撃する新型攻撃を編み出し、世界水準にまで押し上げた航空機と改良型新式魚雷(海中に深く潜らない魚雷で、浅い真珠湾攻撃に適していた)で真珠湾攻撃案を立案。真珠湾攻撃の直前まで「和平が達成できたときは、即、攻撃中止し引き返すこと」という命令を出していた。最後の日米交渉が行われた矢先に、陸軍が南方へ侵攻し、和平交渉が瓦解。対日石油禁輸制裁を受ける事となった。長官は、近衛文麿総理との会見で、日米開戦回避を要請。近衛内閣は、日米戦のシュミレーションを行い、完敗予想が出たが、それに参加した東条英機は、それでも、戦ってみないと結果は分からないと言い放った。東条達陸軍首脳は「勝てると思う」という漠然とした自信だけで亡国への道・日米戦争を推進していった。それは、トルーマンの日本叩きの罠にはまる結果となった。そして、日本政府に約束させていた事前通告・宣戦布告後に作戦決行が果たされないまま、真珠湾攻撃を行うという前代未聞の失敗を犯してしまう。長官の意向(アメリカに大打撃を与えて、有利な停戦交渉を行う)とは真逆の結果となり、彼は、亡国戦争に手を貸した事となった。遺書に「いざまて若人ら、死出の名残りの一戦華々しくも戦いて、やがて後追う我なるぞ」の言葉通り、ラバウルから飛び立って、撃墜される過程で、自決されたという(同行した部下の知られざる言葉)。

 

 

山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯 2/9

 

 

山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯 3/9

 

 

山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯 4/9

 

 

山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯 5/9

 

 

山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯 6/9

 

 

山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯 7/9

  

 

山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯 8/9

  

 

山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯 9/9