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SOBISH A Inc. 創美社

bsk5865 2012. 4. 9. 15:30

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「寄席の人たち」 連載第三回 「漫才師 あした順子・ひろし」前編

筆者 ノンフィクションライター 秋山真志(あきやままさし)
昭和33年、東京生まれ。明治大学文学部フランス文学科卒業後、出版社勤務後、紆余曲折をを経てノンフィクションライターとなる。主な著書に『職業外伝』、『続 職業外伝』(ポプラ社)がある。落語好きが高じて、自ら落語会の席亭も務める落語狂。寄席とJAZZと居酒屋とアジア貧乏旅行をこよなく愛する不良中年。

漫才師 あした順子・ひろし
[順子]
昭和七年、台東区田島町に芸人の両親のもとに生まれる。幼い頃から日舞を習う。十四歳のときにひろしと出会って仕事をするが、結婚のために一時引退。しかし、すぐに別れてひろしとコンビを組み、マジック、コント、漫才をはじめ、紆余曲折を経て漫才ひと筋となる。芸歴六十年。娘ひとり、孫二人。
趣味:居酒屋で飲んで客を笑わすことと、ドトールで年金組のオバサンたちを笑わすこと。元気の秘訣は王子の駅前の百十段の階段を駆け上がること。

[ひろし]
大正十一年、台東区竹町に五人兄弟の(姉妹もいたが、男の子の中では)末っ子として生まれる。戦前は大都映画の雑用係や役者連中と芝居などにも出演した。戦後は歌謡ショーの司会やコントなどをやっているうちに、順子と出会う。
娘二人、孫二人、ひ孫ひとり、妻ひとり。
趣味:将棋アマ三段、飲んで歌。

昭和四十七年、NHK漫才コンクール・敢闘賞受賞
平成八年、浅草芸能大賞奨励賞受賞

漫才師になりたい人へのアドバイス
お互いに信じ合うことが一番。互いに理解し合って、やさしさといたわりがなければ、コンビは長つづきしません。「何だ、この人は」なんて疑ったら、終わりですよ。

ドサ回り、キャバレー、大阪修行、寄席で揉まれ、洗練された 味わいと絶妙な“間”が生み出す、漫才の至芸

1.絶妙な“間”が順子・ひろしの漫才の真骨頂


 出囃子に乗って、あした順子が踊りながら登場すると、右手を振っておいでおいで。やや間があって、ひろしがペンギンのようにピョコピョコ歩くような踊るような格好で出てきただけで、場内がはじけるように沸き返った。二人は一瞬のうちに客席の空気をつかみ取った。
「あっという間に二人のトシはスゴイですよ。あたしは五十で、こちらが百歳」
「そんなバカなことあるか」
「コンビを組んで五十何年」
「そのぐらいになるね」
「夫婦じゃありません」
「他人コンビなんです」
「援助交際じゃありません」
「当たり前じゃないか」
「介護交際です」
「もういいよ」
「弟子・師匠でがんばっています」
「まあ、見ればわかるでしょ、ぼくが師匠で……」
「あたしが大師匠でございます」
「逆らうなよ」
「お客さまがご覧になれば、どっちが師匠でどっちが大師匠だからわかるんだから。こんなおじんとギャルとやってんだから」
「だれがギャルなんだ」
「あたし、漫才の中のモーニング娘。っていわれています」
「モーニング娘?」
「こちら、モーニング男。です。夜中の三時に起きるからモーニング男。いまちょうど寝ながら漫才やってるんですよ。器用なお方なんです」
「寝てんのかよ、オレは。そんなバカなことをいっているからこの人、この間舞台で倒れたんですよ」
「倒れました」
「厚化粧で息ができなくなって」
「失礼なこというんじゃないよ。でも、この人も相当おカネを残しているんですよ」
「カネないよ、オレ」
「調べたもの。ずいぶん前から年金をもらっているんですよ」
「関係ないよ、そんなこたあ」
「動物園もタダです」
「知らないよ」
「まあ、そんなことで怒らないでくださいよ。やだあ、そんな色っぽい目で見て」

♪男はあなた、ひろし。
(二人、向かい合って踊り出す)
♪女は君さ、順子。
♪(二人で)切なさが胸にくる……
「気持ち悪いよ。ゴキブリが悶えてるんじゃないんだから」
「少しムードを変えましょうよ」
「どういうふうに」
(ポケットに手を突っ込んで斜に構えて)
「ひろしです」
「たしかにひろしです。でも、そのポーズがダメなのよ、踊りの気がないから。あんたの場合、踊りはできないんでしょ」
「踊りはできるよ」
「どういうの?」
「二人で踊るダンス」
「まあ、スゴイわ。お相手させていただきたいわ」
「大丈夫か」
「テンポは?」
「まあ、テンポは水滸伝」
「バカだねえ。テンポってタイムのこと。ダンスの速さ」
「何でも合わせるよ」
「じゃ、踊る前にターンしてみてくれる?」
「ターン? オレはレバーだな」
「バカだな。ターンってグルッと回るんですよ。グルって回ってお手ちょうだい」
 ひろしがクルリと回ると犬のようにしゃがんで手を出した。順子はお手をすると、パッときびすを返し、大仰なステップでダンス。ひろしがそのあとをヨタヨタとついてくる。順子のダンスは見事に様になっていて、ひろしはそれを横目で見ながら真似しようとするのだが、ワンテンポずれてポーズが決まらない。そのうちに順子が鳥の求愛ダンスみたいに両腕を振りながら、胸を突き出し、奇妙なステップを踏みはじめるのだが……一瞬の間があって、パタパタ腕を振りながら近づいてくるひろしと目と目が合って、「何やってんだよ」と順子がひろしの頭を引っぱたく。
「引っぱたくなよ。ここにあった毛がなくなってくらあ」
「そんなの気にするんじゃないよ、これやるから」
 と順子がガラッパチにいうと、自分の頭に付けていたヘアピースのような髪飾りをひろしのハゲた頭に乗せた。場内は大爆笑だ。ひろしの情けないような、とぼけた表情が笑わせる。高座と客席の間に漂う何ともいえぬおかしみ……ここに不思議な“間”がある。普通の漫才ならば、オチのセリフがあるのだが、二人は何もいわない。間と振りだけでサッと高座を降りてくる。この絶妙な間が順子・ひろしの真骨頂だ。このサラリとした間を体得するのに、どれほどの修羅場をくぐり抜けてきたのだろうか。以前からずっと気になっていた。

2.第一印象はオカマだった!? 十四歳での初めての出会い


 順子もひろしも生粋の江戸っ子だ。順子は昭和七年、浅草の田島町八十九番地に生まれた。六区方面から国際通りを隔てた向こう側の一角。田島町は“田島町芸人地図”なるものがあるほど芸人の住む町で、漫才の松鶴家千代菊・千代若、内海好江、浪曲の初代・玉川勝太郎、林伯猿らが住んでいた。順子の生家は、マジックのダーク大和のおばさんで安来節の八千代さんの家の裏の長屋だった。
「長屋といっても稲荷町の(林家)彦六師匠が住んでいたようなきれいな長屋ね。二軒長屋、三軒長屋……『今日、何かないかな』、『これ食べなよ、これ持っていきなよ』なんて毎日、オカズの交換をしたり……とても情のある下町でしたね。私はそこの松葉小学校を卒業したんです。浅草は自分の庭のようなもの、生まれ育って、職場も……いまだかつてこの年になって浅草から離れられないというのは、すごく幸せなことだなって思っています」
 父親の晴雄さんは大卒で英語がペラペラのインテリ芸人。バイオリンができる、三味線も弾く、おしゃべりはうまいし踊りも上手。順子曰く「頭がよく、教養が身に付いているところはすごく尊敬していました。ただいわゆる器用貧乏でねえ、芸の面ではあまり尊敬できなかったですね」。毎日、銭湯に行ってすべての新聞を読んで頭に入れて、舞台で時事ネタをしゃべったりしていた。順子が生まれた頃は、市山寿太郎、市山小寿(こすず)の芸名で夫婦漫才をやっていた。田島町には芸能事務所がたくさんあった。晴雄さんは銭湯から出ると事務所を回り、「今日はここに行ってください」、「明日はどこどこに回ってください」と仕事の注文をもらってきた。それだけ毎日仕事はあった。
 順子は数えの六歳六月六日から日本舞踊を習いはじめた。踊りは大好きで、将来は踊りの師匠になりたかった。市山扇寿という名前をもらった。勉強は好きでもキライでもなく、成績は中ぐらい。引っ込み思案の子供だった。三月九日の大空襲で焼け出され、父を残して一家で栃木に疎開した。田舎の子供とは水と油でまったく合わず、順子はすっかり萎縮してしまった。そのうちに終戦になって、東京にもどり、今度はモダンバレエを習った。
「稼ぐには日本舞踊じゃダメだと思って、常盤台の駅前のモダンバレエの教室に、第一期生で入ったの。それで洋舞を身に付けて、笠置シズ子の東京ブギとか自分で振り付けて進駐軍のキャンプを回っていました。芸名は藤間順子。父は反対していたけど、それを押し切ってやってましたね。おかめとひょっとこのお面を両面に付けて踊ったら、バカ受けだったんだから」
 キャンプに行くと、コカコーラとハンバーガーが出た。こんなにうまいものが世の中にあったのか!と思ったのがコカコーラだった。「ギブミーシガレット」、順子が一番最初に覚えた英語だった。父親にタバコをあげたら、「オマエそんなことするな!」と怒られた。
 ひろしと出会ったのは十四歳のときだった。ひろしは当時、二十四歳、“まつばらちかし(漢字不詳)とその楽団”の司会を務めながら、歌い手と一緒にコントもしていた。歌、芝居、コント、踊りもあるバラエティショーのような構成だった。ある日のこと、踊り子が怪我をして出演できなくなってしまった。
「それで私の知っている踊り子さんのところに代演してくれないかという連絡がひろしさんからきて……そのお姉さんが仕事で行けないので私を紹介したの。それが初めてのきっかけです。『行ってくれますか?』っていうからうちの父がこちらを見て、『やさしくてまじめそうな人だ。この人だったら仕事に行っても大丈夫だ』って。芸人ずれしてないところがよかったみたい。忘れもしない、小田原の芝居小屋。私は二曲で三日間。東京ブギのおかめ・ひょっとこの両面踊りでね。ひろしさんの第一印象? そうねえ、しぐさや言葉がやさしくて、オカマかと思いましたよ。当時は本名の大野寛でね、最初の頃は『大野先生』と呼んでいました。そのうち『大野さん』になって、気が付いたら『おーい』ってね(笑)。あんたも少ししゃべりなさいよ(笑)」
「あの時分、オレ少しオカマの気があったのかな? よく女形にも扮していたからね。彼女の第一印象? どうってことないよ、ただかわいいなって。あまりにも子供だったし、別に何とも思わなかったね」
「オカマっぽかったせいか(笑)、女の人にも信用されていて、一緒にいても安心できる人でした。いまでもこの人のことを悪くいう人はいないぐらいですから」
 バンドリーダーのまつばらが順子をすっかり気に入って、そのあとも一週間ほど一緒に仕事をした。待遇もひろしより上だった。ひろしが司会やコントをして一日五百円。対して順子は踊りだけで八百円だった。サラリーマンの月給が二千円、三千円の時代に破格のギャラである。「キャラメル代を除いて、残りは家に入れていました。おかげさまで戦後は食べ物に不自由したことはなかったですね」。その後も進駐軍のキャンプ回りや地方巡業にも同行、全国津津浦浦を回り、一ヶ月以上東京に帰ってこなかったこともざらだった。

3.浪曲少年が歌謡ショーの司会とコントをやるまで


 ひろしは大正十一年、台東区竹町に五人兄弟の(姉妹もいたが、男の子の中では)末っ子として生まれた。長男はのちにプロ棋士九段として、勇名を馳せることとなる大野源一。木見金治郎門下で、大山康晴や升田幸三の兄弟子に当たる。大山や升田が絣の着物姿で「大野先生」と飯を食いに来たり、よく遊びに訪れた。竹町は俗に三味線堀と呼ばれ、寄席や見世物小屋、料理屋が立ち並ぶ一大歓楽街だった。子供の頃から芸事が好きで、大工の父親に連れて行かれてよく浅草で芝居や浪曲を見ていた。小学校を出て、高等学校に行ったが、一年でやめてしまった。
「浪曲の鈴木米若さんが近くに住んでいて、前の原っぱで練習していたんですよね。よくくっついて歩いて浪曲の真似事をしたりしてね、将来は浪曲師になりたかった。でも、オマエの浪曲なんかで飯が食えるか!って親父に怒られちゃってね。職業にしてはいけないって。でも、そのおかげでいまでも高座で浪曲の物真似はやるね。勝太郎、虎造、米若なんかをね」
 竹町から北区滝野川に一家で引っ越したのだが、近所に大都映画(のちに日活、新興キネマと併合して大映となる)という映画製作会社があった。阿部九州男、木下双葉、ハヤフサ・ヒデト、琴糸路、近衛十四郎、松山宗三郎(のちに『肉体の門』を演出)といった看板役者たちを擁していた。大部屋の役者や大道具の人たちが近くのアパートに住んでいて、彼らとすっかり仲良くなったひろしは「手伝いをやらないか」といわれて、荷物運びを手伝いながら、劇場に小道具などを下ろしていた。戦時中なので、空襲警報が鳴ると、荷物をまとめて帰ることもあった。
「地方に行くと米をくれるんですよ。あの時分米といったらたいへんなもの。親父がすっかり喜んじゃって『行って来い行って来い』って。『食えない仕事はやめろ』といっていた親父に、本当に食える米を持ってきたんだから(笑)。米では助かったね。警官に取られちゃったこともあるけどね。だからギターケースとかアコーディオンのケースに米を入れて、帰ってきてからみんなで分けたりしてね」
 そのうちに大都映画の役者が常盤座という劇場で芝居をやることになって、ススメられるうちに舞台に出るようになった。チンピラの子分やチャンバラの切られ役といった役どころだが、しょっちゅうきっかけを間違えて、笑わしてはいけない場面で客を笑わしてしまった。
「何かワンテンポずれるんだね。『さあ、乗り込むぞ』というセリフにきっかけが少し遅れて『がってんだ』と答えて……お客がどっと笑ったりとかね」
 しだいに戦争が激しくなって、芝居どころではなくなった。徴兵検査は丙種合格。徴兵ではなく、徴用だった。横須賀の鉄砲工場に働きに行き、そこで終戦。戦後は東海林太郎の歌謡ショーの前にコントをするようになった。そのときの司会者が西村小楽天という人で仲良くなった。
「小楽天さんが『ひろちゃん、コントよりも司会やったらどうだい? いまいくらもらっているのか知らないけど、二倍はもらえるよ。やるならオレが責任もつから、社長にいってやるよ』って。オレはすっかり金に惚れて、そんなにもらえるの、って舞い上がっちゃった」
 それから、歌謡ショーの司会とコントを両方やるようになり、そうこうするうちに、“まつばらちかしとそのバンド”の司会を担当、順子と出会うことになるのである。

4.順子が女子プロで身に付けた首投げが大ウケ!!


 昭和二十五年、順子は結婚、娘が生まれたものの怠け者の亭主に愛想が尽き、すぐに出もどった。「うちの両親が、帰ってらっしゃいって待っていて、子育ても助けてくれたんです。これから何をしようか、かんがえているときに、父の友達の手品師が遊びに来て、手品を教えてくれて……よし!これをやろうと思って、松旭斎純子という名前でヅラつけて手妻(てづま)(和式手品)をはじめました。そうしたら、ひろしさんとまた出会ったんですよ。じゃあ、私の後見をやってよ、という話になって、コントも取り入れてやるようになったのね。そのときの芸名が、南順子、北ひろし」
「オレはぶきっちょだから、よくマジックも間違えてね。気取った手振りで旗を出そうとしたら、からまっちゃって出てこないなんてことがしょっちゅう(笑)。でも、お客さんは喜んだな。マジックとコントでけっこう仕事があってね」
「箱に剣を刺すマジックがあって、この人が中に入ってるの。でも照明が強過ぎて外から中が見えないのよ。剣を刺したらね、中で『いてぇよ、いてぇよ』って。私は、『我慢しろ』っていったのよ。しばらくやっていたらお客に、『中でいてえっていってるよ』っていわれて、大ウケしたこともありました」
「そんなこともあったね(笑)。そういえば、オレ、その頃、結婚したんだっけ?」
「そうよ。足利の劇場にいたら、電報が来て『アス、ミアイ、カエレ』。それから一日、二日して帰ってきて『決めた』っていったじゃないの」
「親戚が一生懸命だったからね、結婚させようと」
「でも、あんたはいい奥さんをもらった。内助の功がスゴイもの。家は建てる。ムダなお金は遣わない。でも、ケチではないのね。どこにも行かない。家の中から出ていかない。まさに“箱入り娘”(笑)」
 購読者を招待する読売新聞の仕事が多く、地方の公会堂などを回りながら仕事をした。その舞台を見ていたリーガル天才・秀才が「それだけしゃべれるんだったら、洋服を着て漫才をやりなよ」といった。それまではひろしが学生服、順子が絣の着物という出で立ちだった。それを機に洋服でやる漫才に切り替えた。これまでのコントのネタを漫才調にしたり、順子の父親のネタを借りて漫才をやった。女子プロレスと一緒に仕事をすることもあり……あるとき、レスラーのひとりが怪我をしてしまった。
「そうしたら向こうのエライ人がね、私にぜひプロレスラーになってくれっていうのよ(笑)。私、冗談じゃないっていったんだけど、懇願されて断れなくてね。旅館で首投げの稽古を一生懸命して、ホントに女子プロの試合に出たんですよ。で、首投げの格好だけやったら前のお客が、『あいつ、技はまずいけど、表情はうまいな』って(笑)。それからコントでも使うようになって……私がひろしさんを首投げで投げ飛ばすの。そんなことをやる人はいなかったので、それがものすごくウケた。手加減? そんなことしませんよ。ヘタに加減したら怪我しちゃうからね。この人、痛そうな表情がうまいのよ」
「ホントに痛いときもあるよ。いてえな、と思うけども、痛そうな顔して頭下げて終わるのがオチになっちゃったんだから、しょうがない」
「この人は投げられて家を建てたっていうのは本当の話なのよ(笑)。五年ぐらい前にNHKの番組で、爆笑問題に首投げをリクエストされて特別にやったのが最後ね。だからひろしさんは七十代後半まで私に投げられていたのね」
「首投げは大ヒットでしたね。こんなの毎日やられたんじゃかなわないなって思ったけどね。でも仕事に行くと、最後に投げられるネタをやらないとお客さんが納得しない。怠けているっていってね(笑)。思いっきり投げ飛ばされて、新しいズボンが真ん中からピーッと切れちゃったこともあったな」
「つくったその日だったね。神戸の松竹座で。莫大な損害だったね」


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