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藤山一郞(1911-1993)
日本橋生まれの生粹の江戶っ子。慶應普通部では岡本太郞と同窓であっ た。東京音樂學校在學中の 昭和6年、家計のあまりの苦しさを見かねて、アルバイトとして「酒は淚か 溜息か」「丘を越えて」 などを吹きこむが、これが予想に反して大ヒット。「酒は淚か溜息か」は當
時の蓄音機の國內普及台數の四倍のセ-ルスを出したというから、今に換算したらさしずめ億單位の枚
數のレベルの氣の遠くなる ような話である。昔のレコ-ドはすりきれたら音が出なくなるので、
カフェ- などが一度に數枚買い付けたためだと言われている。
藤山一郞という芸名は當時、華嚴の瀧への投身自殺で、自殺ブ-ムの主役で あった帝大生、藤村操にちな
んだもの。しかし歌手デビュ-前の惡友であっ た藤村一郞から貰ったとも
され、どちらも藤山自身が言っている話なので正確なところは定かではない。
やがて、あまりの反響のすごさで、わざわざ變名まで使って吹きこんだ、このアルバイトが學校に
知られて、停學處分となる。同時期に吹きこんだ「影を慕いて」も爆發的なヒットとなり、
歌手藤山一郞の名は、作曲家古賀政男の名と共に全國區になった。8年、音樂學校卒業後はビクタ-に
在籍したが、11年、古賀政男のたっての賴みでテイチクと契約。戰前最大の セ-ルスとも稱される
「東京ラプソディ-」「男の純情」「靑い背廣で」などの大ヒットを連發した。
やがて古賀のコロムビア復歸に合わせる形で、藤山自身も再度コロムビアに戾った。
戰中は南方戰線を 慰問してまわり、敗戰を外地で迎える。21年に復員したが、當時の藤山一郞
のネ-ムバリュ-は正に 別格扱いであった。24年「靑い山脈」が大ヒット。映畵主題歌だったのだが、
監督の今井正はこの曲が 氣に入らず、作曲家の服部良一と長きに渡る絶交狀態に入ったという話がある。
さらに被爆體驗記を書いた永井隆博士に捧げる形の「長崎の鐘」も大ヒット。
流行歌を「コジキ節」と蔑視したサトウハチロ-が初めて本氣で書いた作詞で、
永井博士は この曲の流行の直後、被爆の後遺症で死を遂げた。29年にはNHK囑託となる。
以後、死ぬまで 紅白に指揮者として連續出場。28年の紅白の大トリでは時間がおして
「丘は花ざかり」をワンコ-ラス しか歌えなかったという話もある。47年に紫綬褒章、58年に勳三等瑞
寶章、平成4年、國民榮譽賞を 受賞。7年には從四位が贈られた。最晩年まで懷メロ歌手としてテレビ
番組 などで健在ぶりを示していたが、5年、家で就寢した直後、背中の痛みを訴え、そのまま不歸の人
となった。
前日にロ-タリ-クラブの例會に參加、その前の日にはゴルフ場をまわるなどしていた
美空ひばり登場以前の歌謠界を席卷した、文字通りのビッグネ-ムである。
自動車狂としても知られ、戰後の一時期は自ら外車ショップを經營した事もあった。
代表曲 昭和6年 酒は淚か溜息か、丘を越えて 昭和7年 影を慕いて 昭和8年 僕の靑春 昭和11年 東京ラプソディ-、東京娘、男の純情 昭和12年 靑い背廣で、靑春日記 昭和14年 懷しのボレロ 昭和15年 空の勇士、なつかしの歌聲(二葉あき子)、燃ゆる大空(霧島昇) 昭和22年 夢淡き東京 昭和24年 靑い山脈(奈良光枝)、長崎の鐘 昭和25年 山のかなたに 昭和27年 丘は花ざかり
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藤山一郎
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藤山 一郎(ふじやま いちろう、1911年4月8日 - 1993年8月21日)は、日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシックの声楽家。バリトン歌手として活躍。東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。慶應義塾幼稚舎卒業、慶應義塾普通部卒業。東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『青い山脈』『長崎の鐘』など多数のヒット曲を歌った。理論・楽典に忠実に歌うということから正格歌手と評され、日本語の明瞭度の高さは楷書の歌と評された。その一方で作曲家・指揮者としても活躍した。1992年、スポーツ選手以外では初めて存命中に国民栄誉賞を受賞した[† 1]。参議院議員の加納時男は甥。
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