日語雜物函

[お吉物語] 真実のお吉

bsk5865 2012. 10. 11. 22:09

http://www3.tokai.or.jp/amagi/smd-okiti.htm

真実のお吉

幕末、開国の一舞台となった下田。その片隅の悲話「唐人お吉物語」は小説になり舞台で上

演などもされ、全国的に有名になっています。しかしそこで語られ演じられている事は今日

の歴史資料や伝聞等により判明した史実とは、かなりかけ離れた物と断言できます。

それは明治の下田の開業医である開国史研究者「村松春水」の、お吉を題材にした小説風の

原稿を、昭和初年、作家十一谷義三郎が史実実話と銘打って「唐人お吉」を発表したことによる

ものだったからであり、生前春水は「私の原稿は十一谷の儲け仕事に色々と利用されたが、

それについて氏から何らの挨拶もなかった。」と明言しているからです。

ここでは「下田物語」や地方史研究所より引用した「真実のお吉」像を紹介してみます。


お吉は天保12年11月10日、船大工市兵衛の次女として愛知県半田(知多半島)で生まれ
    
4歳で下田に移り住み7歳で養女、14歳で養母おせんや知人の奨めにより芸者となりました。
一説では「洗濯女」とも言われ、港に入った船乗りなどの身の回りの世話をする宿専属の、

酒の相手やまた体も提供していたとも言われています。    
生まれつきの瓜実顔で漁村の女にしては垢抜けていて、その美貌は評判になりました。また
    
美声でもあり新内の明鳥が得意だったことから「新内のお吉」「明鳥のお吉」と呼ばれ、もては
    
やされたと言い事です。
    
安政4年(1857)お吉17歳の時、幕府側かアメリカ側どちらからの要望であるか、これが第一
    
の問題点でもありますが、お吉はアメリカ領事館のハリスの元へ奉公に上がることになりまし
    
た。日本人の欧米コンプレックスのためか、また物語中にて悪巧みな役人が弱い町人を虐め
    
る構図の方が観客に受けるためか、日本側のハリス懐柔策でお吉が国の犠牲として連れて
            
行かれたという物語になってしまったようです。しかし昭和時代アメリカ進駐軍が日本政府に
    
要求した慰安婦の事例と照らし合わせ、またハリスは江戸から帰った安政5年~翌2月まで
  
おさよと言う優しい気性の娘を支度金20両月給7両2分で囲っていた事実、また江戸滞在中
    
もおりんと言う18歳になる寺仕込みの使用人を三ヶ月ほど仕えさせていたいう事から、ハリス
    
側から、召使いあるいは看護婦の名目の下、日本の若い娘を要求をしていたのだと言う説の
    
方が説得力がある様感じます。また下田奉行所支配頭取・伊差新次郎自らが、お吉をハリス
    
の元へ奉公に行けと口説いたと言う説も、幕府の役人が出るまでもなく町や組合などの世話
    
役や頭がその役に当たったと言う方が、現代でも日常起こりえる日本らしい風景に感じます。 
    
    
さてその安政4年5月22日の夜、お吉は五人の役人につきそわれ引き戸駕籠に乗せられ     
    
領事館へと出向いて行きました。そして翌朝帰って行きました。しかし三夜でお吉に腫物が
    
あると言うことで、ハリスより奉行を通して自宅療養を申しつけられてしまいました。よって
    
お吉がハリスの元に通ったのはこの三夜だけだったのです。物語で演じられているような
    
献身的看病や異人との恋愛感情などは、資料には全く存在していません。

こちらでは三ヶ月 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E3%81%8D%E3%81%A1
    
何故わずか三夜かぎりでお吉がハリスの付き添いをおろされたのか、これも諸説ありますが     
    
本当のことははっきりはしていません。 ハリスの人道説や病気説、プロの女であるお吉の
    
性格に嫌悪を感じた・反対にお吉は老いた異人を好まなかったと言う説等色々ありますが、
                   
後日事実上の手切れ金30両をうけ取った時12両は前借り金の返済として奉行所に引かれ 
    
た事や、ご用役人が女達の待機している間騒がしかったとなどの記録から(また後半生か
    
らも)金遣いの荒い派手好きな女だったと言えるのではないかと思います。また前述のおさよ
    
や秘書官のヒュースケン侍女おふくやおきよ、そしておまつなどとは長期間に深いと関係を
    
持ったと言うことから、お吉のみが特異のケースであったと言えるでしょう。     
      
お吉のその後は、三島や横浜での芸妓生活、鶴松との髪結業の開業、また安良里の船主     
    
亀吉の後援で安直楼を開くも二年で廃業となるなど、波乱の生涯を過ごしました。そして     
    
明治24年、51歳(数え)の時、事故なのか自ら身を投じたのか増水した河川に入水し命を
    
落としたです。晩年は乞食の集団に身をおき、子供達からは唐人と石を投げられさげすまれ     
    
ながらも、人からの施しは一切受け付けず、旧知の名家を回り寄食しました。     
    
その時分の事が大きく取り上げられ、下田の人々がお吉をなじり蔑んだことになってしまった     
    
のです。一部には罵声や嘲笑を浴びせた人々もいましたが、それはお吉のプライドの高さと     
    
酒癖の悪さが原因であり、その哀しい性格が災いしていたと言えるのでしょう。しかし、もし     
    
ハリスの元へ奉公に出なくて済んだのなら、唯の酒飲みで気位の高い芸者で一生を終わっ     
    
ていたかも知れません。一時代の動乱に巻き込まれた、不幸な女だったことには違いあり
ません。



ここにはお吉の粗末なお墓と、隣に水谷八重子寄贈の立派な墓が建てられています

(宝福寺)


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