豫備敎材函

[K-40904] 無錫旅情 - 尾形大作

bsk5865 2016. 2. 24. 14:39

無錫旅情 / 尾形大作

https://www.youtube.com/watch?v=ClpuOD7tmlw

無錫旅情  松村  和子

https://www.youtube.com/watch?v=b88koYV4qaU

無錫旅情 (カラオケ)

https://www.youtube.com/watch?v=7eGefZd54qI                                  [K-40904]

無錫旅情 / 尾形大作(1986年9月リリース) ♪cover kuni

https://www.youtube.com/watch?v=FZZ5aGycOMo

無錫旅情 - 尾形大作

      無錫旅情 -  尾形 大作 
     むしゃく りょじょう 무시야쿠료죠-오가타다이사쿠 
    作詞, 作曲 : 中山大三郞
    
    一,
    기미노 시라나이 이고쿠노 마치데
    君の知らない 異國の街で            그대가 모르는 이국 거리에서 
    기미오 오모에바 나케테쿠루 
    君を想えば 泣けてくる               그대를 생각하면 울음이 나와 
    오레나도 와수레테 시아와세 츠카메토
    おれなど忘れて しあわせつかめと 나같은건 잊고서 행복하라고 
    챠이나노 타비지오 유쿠오레사
    チャイナの旅路を 行くおれさ       중국의 여로를 가는 나야 
    샹하이 소슈토 기샤니 노리
    上海 蘇州と 汽車に乘り              상해 소주로 기차를 타고 
    타이코노 호토리 무샤쿠노 마치에
    太胡のほとり 無錫の街へ            타이후 호의 근처 우시시의 거리에 

    二, 후네니 유라레테 운가오 유케바 船にゆられて 運河を行けば 배에 흔들리며 운하를 가면 바카나 와카레가 구야시이요 ばかな別れが くやしいよ 어리석은 이별이 분해요 안나니 아이시타 안나니모에테타 あんなに愛した あんなにもえてた그만큼 사랑했어 그처럼 달아올랐어 이노치오 카케타라 데키타노니 いのちを賭けたら できたのに 목숨을 걸었으면 이루어졌을것을 나미다노 요코가오치라츠이테 淚の橫顔 ちらついて 눈물의 옆얼굴이 어른거려서 레키시노 마치모 보야케테 미에루 歷史の街も ぼやけて見える 역사의 거리도 흐려 보여 三, 무카시 나가라노 쟝쿠가 하시루 むかしながらの ジャンクが走る 옛 그대로의 졍크가 떠가는 하루카 고지마와 상즈앙가 はるか小島は 三山が 아득한 작은 섬은 세개의 산이 록죠쟝가라 타이코오 노죠메바 鹿頂山から太湖をのぞめば 록정산에서 타이후 호를 바라보면 고코로노 나카마데 히로쿠나루 心の中まで 廣くなる 가슴 속까지 넓어져 고멩요 모이치도 데나오소우 ごめんよ も一度 出直そう 미안해 한번 더 새출발 하자 콘도와 기미오 하나시와시나이 今度は君を はなしはしない 이번에는 그대를 놓치지 않으리

    cafe.daum.net/love-japan/jZ59/273 

 

無錫 (Wuhsi 우시 - 중국 도시)- 중국 장쑤 성[江蘇省] 남부에 있는 도시.
타이후 호[太湖]의 북쪽 모퉁이 근처, 시청[錫澄] 운하와 대운하가 만나는 지점에 있다.

중국 장쑤 성[江蘇省]

無錫 (Wuhsi 우시)

【1988年1月】無錫旅情/尾形大作 中国から火が付き 日本では1年以上たって大ヒット




【無錫旅情/尾形大作】

 発売から1年以上が経過してからレコード売り上げでトップテンに入った。忘年会シーズンにカラオケでよく歌われた効果で、有線放送にもリクエストが集まり、そのインパクトの強さは87年大みそかのNHK「紅白歌合戦」初出場へと導いた。
 
 福岡出身の演歌歌手、尾形大作が歌った「無錫(むしゃく)旅情」。中国・上海と南京との間にある水郷の街、無錫を舞台にした“ご当地ソング”。日本のある地方を舞台にしてのヒット曲は多いが、中国、それも多くの日本人にはあまりなじみのない地名をタイトルに付けてのヒット曲は、逆に想像力をかき立てた。風光明媚な湖と山がある無錫への観光客はこれで急増。日本からそれまでの3倍以上の観光客が押し寄せたという。

 所属事務所が中国と信仰がったことがきっかけだった。観光客誘致のイメージソングを、との依頼で尾形が歌うことになった。火が付いたのは中国から。発売されたカセットテープが飛ぶように売れ、50万本を記録。その話が日本に伝わり話題になると、有線放送にリクエストがくるようになり、レコードも売れ始めた。

オリコンランキングで11位から20位の間を行ったり来たりしていたが、87年の暮れごろからようやく殻をぶち破り、ベストテンに顔を見せた。その後、無錫にある公園にはこの歌の歌碑まで立てられた。

 歌を始めたのは虚弱体質からだった。結核と喘息を患ったことで医師から「肺を鍛えるために」と勧められたのが歌うことだった。才能はみるみるうちに開花した。中学の頃は知り合いのカラオケスナックに行って、客のリクエストに応じて懐メロを歌うことに。高校に入るとモトクロスバイクとラグビーに夢中になったが、高3の時に福岡音楽祭に出場。目的は賞金の30万円で新しいバイクを買うことだったが、ここで特別賞に選ばれ、スカウトされて歌手の道へとつながった。

 歌う際にマイクを回す“パフォーマンス”もヒットの話題の一つだったが、続く「大連の街から」などの中国シリーズで人気歌手の仲間入り。しかし、90年に担当マネジャーの使い込みに端を発した所属事務所とのトラブルで芸能界の中央からは姿をみせなくなった。現在は地元九州で歌手として舞台に立ち、新曲も出しているほか、俳優としても活躍している。

  http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/01/kiji/K20120113002416500.html


[ 2012年1月13日 ]