戰史.軍歌(日)

眞珠灣奇襲 九軍神

bsk5865 2019. 6. 15. 06:19
1.오하우섬의 와이마날루 잠수정 좌초
2,탑승한 두 명의 승무원 중 사카마키 카즈오(酒巻 和男) 소위가 탈출 후 해안에서 
  탈진한 상태로 해안경비병에게 생포 (동승했던 키요시 이나가키 이등병조는 함께 
  탈출 후 행방불명..이후 전사 처리) 
3.사카마키는 생포된 포로 제 1호가 되었으며 선전차원에서 미국의 라디오 방송을 
  통해 일본 군부에 전해짐. 일본은 사카마키 포로 사건은 물론, 그의 존재 자체까    지 비로 취급
4.하와이의 포로수용소에 혼자 수감. 자살을 시도도 하고 난리도 피웠지만 후에는
  모범수(?)로 지냄
5.미 본토 포로수용소로 이송된 뒤 1943년부터 점차 일본군 포로들이 늘어나자 패닉
  에 빠진 그들의 정신적 지주 노릇함
6.종전후 1946년 일본으로 송환된 사카마키는 도요타 자동차에 입사, 브라질 
  지사장을 거쳐 1999년 사망함.

참고 

アメリカ軍捕虜時代[編集]

첨부 이미지
捕虜時代の酒巻。両頬にはアメリカ軍兵士により煙草の火を押し付けられ拷問された痕が見られる

この時、真珠湾攻撃で使用された「特潜」は全部で5艇(乗員10名)であったが、当初は全艇が集合地点に帰還しなかった上に、アメリカ軍ラジオ放送などで撃沈されたと報じられたことから全員が戦死したものと考えられた。

その後、アメリカ軍のラジオ放送から酒巻が生存し捕虜となったことが公表されたものの、酒巻が捕虜となったことは日本海軍によって秘密にされた。

なおその後日本海軍は酒巻以外の全員を戦死扱いとし、大本営は戦死した9名を「九軍神」として発表した。なお酒巻は1944年(昭和19年)8月31日附で予備役編入とされている[1]

捕虜収容所では、アメリカ軍兵士より煙草の火を顔に押し付けられるなどの戦時国際法に違反する拷問を受けた。また自決を願うも拒否された。しかしその後は、同じく自決しようとした日本人捕虜の説得にもあたり多くの日本人を救っている。

日本語通訳としても働き、捕虜としての態度が立派であったため、アメリカ軍関係者も酒巻を賞賛した。その後、ハワイの捕虜収容所からアメリカ本土の収容所に移され、終戦後の1946年(昭和21年)に復員した