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孔子の生涯(こうしのしょうがい)

bsk5865 2012. 3. 2. 09:15

보낸사람 : 소담엔카 운영자 12.03.02 08:50

 

孔子の生涯
(こうしのしょうがい)
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孔子の生涯

孔子は紀元前552年に中国の魯の昌平郷(しょうへいきう)という

ところで生まれた。

ここは今の山東省曲阜県(きょくふけん)である。

父母が尼山(じざん)という山に祈って孔子が生まれたので、

字(あざな)を仲尼(ちゅうじ)(仲は次男という意味)、

名を丘(きゅう)と言ったという。

 

生まれて間もなく父が亡くなり、

つづいて母も世を去ったというから、あまり恵まれた

生い立ちではない。貧賎(ひんせん)の家に育(そた)ち、

成人してから官に仕(つか)え、魯の国の委吏(いり)という

役人になった。

これは国家の倉庫の出し入れ係、もしくは会計官のようあんもので

決して高い地位ではない。しかし彼は

これを誠実につとめ、公平に事を処理(しょり)したので、

司職(ししょく)の吏に推薦(すいせん)された。

 

これは牧畜係の役人(やくにん)ということであるが、ここでも

立派に職責を全(まっと)うしている。こうした"能吏”ぶりが

認められて、孔子は"司空”(しくう)という行政官に任命された。

これは一定地域(ちいき)の土地と人民の政治全般(せいじぜんぱん)を司(つかさ)どる役目(やくめ)である。

孔子は後世"聖人”(せいじん)とよばれ、

学者として尊(たっと)ばれているが、

その経歴(けいれき)はこのように下積(したづ)みの

官吏生活(かんりせいかつ)から始(はじ)まっている。

 

論語(ろんご)のなかでも孔子はその”若き日”を

思い起(おこ)して次のように述(の)べている。

"われ少(わか)きとき賎(いや)し。 故(ゆえ)に鄙事(ひじ)に多能(たのう)なり(子篇)(しかんへん)

 

”自分は若いとき身分が低(ひく)かったし貧乏(びんぼう)でもあった。だから日常(にちじょう)の瑣末(さまつ)なことにも通じているのだ”ということである。

 

いずれにしても孔子は人情(にんじょう)の機微(きび)に通じ、

実務家(実務家)としても有能(ゆうのう)であり、

その政治家(せいじか)としての手腕(しゅわん)にはいつしか

周囲(しゅうい)の期待(きたい)がかかって来たのである。

 

当時の中国は歴史上”春秋時代”とよばれる時代である。乱世であり、中央政府の"周王朝”(しゅうおうちょう)の威令(いれい)は

行(おこな)われず、独立国化した斎(さい)、晋(しん)、

呉(ご)、越)えつ)などの諸侯(しょこう)の国々(くにぐに)が天下の覇権(はけん)を狙(ねら)って壮烈(そうれつ)な

戦(たたか)いをくりひろげていた。

 

孔子の生まれた魯(ろ)の国は周(しゅう)の王族(おうぞく)の

一人であり、建国(けんこく)功労者(こうろうしゃ)であった。

 

"周公(しゅうこう)の封(封)ぜられた国であったが、国力(こくりょく)は振(ふる)わず、列国(れっこく)の圧迫(あっぱく)にあえいでいた。のみならず国内では魯の王室は力(ちから)を失(うしな)い、三桓(さんかん)とよばれる三つの豪族(ごうぞく)が

ほしいままに政治を動(うご)かしていた。

 

こうしたなかで次第(しだい)に台頭(たいとう)して来た孔子は魯の王権回復(おうけんかいふく)の望(のぞ)みをかけて、魯王によって”大司冦(たいしこう)”という大臣(だいじん)の位につけられることとなった。

 

このとき孔子は日頃(ひごろ)の抱負(ほうふ)を実現(じつげん)すべく、大胆(だいたん)な政治改革を断行し、三桓の勢力を

抑(おさ)えにかかったが、防禦(ぼうぎょ)立った三桓の巻(ま)き返(かえ)しもものすごく、ついに失脚(しっきゃく)させられて志(こころざし)はとげられなかった。

 

これ以来、孔子は魯国での自分の政治生命が断(た)たれたことを

知り、他の国でその政治理想(せいじりそう)を実現(じつげん)

させたいと願(ねが)うようになった。このようにしてはじめられたのが孔子の”諸国遊説(しょこくゆうぜい)”の旅(たび)である。

 

しかし天下は麻(ま)のごとく乱(みだ)れていたのでついに孔子を受(う)け入(い)れてくれる為政者(いせいしゃ)は現(あらわ)れず、かえって孔子は各地でさまざまな迫害(はくがい)を受けている。

 

この遊説には弟子(でし)たちも多(おお)く同行していたので、

遊説中の出来事(できごと)についての記録(きろく)や対話(たいわ)なども論語(ろんご)のなかに多く残(のこ)されている。

 

失意(しつい)のうちに魯国に帰(かえ)った孔子は、故郷(こきょう)に退(しりそ)いて古典(こてん)の整理(せいり)と弟子の

教育(きょういく)とに専念(せんねん)した。

 

孔子は周王朝の初期(しょき)の政治秩序(せいじちつじょ)と

文化(ぶんか)を理想(りそう)としていた。それらを正(ただ)しく後世(こうせい)に伝(つた)えることに至上(しじょう)の使命感(しめいかん)を感(かん)じていた。そこで晩年(ばんねん)の情熱(じょうねつ)はすべてそこに注(そそ)がれた。

 

孔子が世(よ)を去(さ)ったのは魯の哀公(あいこう)の16年、すなわち紀元前(きげんぜん)479年で、年(とし)は73歳であった。

門弟(もんてい) 3千といわれて多くの弟子(ていし)がいたが、

とくにすぐれていた者(もの)が72人いた。このなかからさらに

俗(ぞく)に”孔子の十哲(じゅうてつ)”とよばれる十人の弟子たちが選(えら)ばれているが、それは次(つぎ)のような

人々(ひとびと)である。

 

顔回(がんかい)、 閔子けん(びんしけん)、

冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓(ちゅうきゅう)、

宰予(さいよ)、子貢(しこう)、冉求(ぜんきゅう)、

子路(しろ)、子游(しゆう)、子夏(しか)

十哲のはかにも曾子(そうし)のような有力(ゆうりょく)な

門人(もんじん)もおり、これらの人々の名(な)はひんぱんに

論語のなかに登場(とうじょう)する。 

 

いま孔子の故郷である山東省(さんとうしょう)の曲阜(きょくふ) には孔子を祀(まつ)る壮麗(そうれい)な

”孔子廟”(こうしびょう)が建(た)てられている。

 

その墓(はか)もこの”孔子廟”の近(ちか)くにあり、

その広(ひろ)い墓域(ぼいき)は孔子のほか、孔家(こうけ)

歴代(れきだい)の人々の墓で占(し)められており

”孔林(こうりん)”の名でしられている。

 

なお、孔子の伝記(でんき)には司馬遷(しばせん)の

〝史記(しき)”に”孔子世家(こうしせいか)” があり、

弟子たちのことは同じく〝史記)の

”仲尼弟子列伝(ちゅうにていしれつでん)”がくわしく伝えている。

 

演奏: 

                                                           

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